少女終末旅行 第9話 「技術」「水槽」「生命」を見ました。

EDがよかったです。滅びの最中(さなか)に、しかして希望あれ。という気持ちでした。

タチコマのような、限りなく人間の知性に肉薄していながらバトーさんらに寄り添う自律思考ロボット。この物語に設定されている技術力でもきっと作れたのだと思いますが、不要だったのかもしれません。

生きているというのは定義次第ですね、とロボットは言っていました。では、アニメの中の登場人物は生きているのでしょうか?私たちの記憶という名の虚数空間の中で、あるいはアニメを見た人たちの仮想的な空想結節点において心臓が形作られているのかもしれないのですが、

私たちの科学技術や生命技術が、人類が滅ぶことなく永続発展し続けていったなら、虚数の世界の可能性でしかない彼女たちや彼らも、現実世界という水面の上へ一つの萌芽として浮かび上がるなんてこともあるかもしれません。その時にはきっと人類はより高次な存在へとシフトして、物理的には存在していないかもしれませんが…。

かつて石原慎太郎さんが、知的障害者の方を見て「彼らは本当に生きているといえるのだろうか?」というラインを越えたことを言われていましたが、私も精神安定剤を大量に処方されていた時期などはずっと水の中にいてぼーっとしているようなことがありました。

幸いにもコミュニケーションの機能はある程度ありましたので、生きてるのか?ということにはならなかったのですが、通院していてかつての私と似たような足取りをしている患者さんも見ていると、頑張れと気持ちを入れたくなります。

タチコマは生きているように見える、草花も生きているように見える、人も生きているように見える。人語を話せれば、コミュニケーションを取ることができたら、それは生きていることの定義に入るのか?たとえばたまねぎが人語を話し始めたら、私たちはどうしたらいいのか?

フォアグラを作らされている鴨たちが「苦しいよ、助けて」と何百羽の鴨たちが話し始めたら、それでも餌を与える仕事の人は、あの食糧人類のような栄養のパンパンに凝縮された流動餌を与え続けられるのか?

ITによって国と国、人種と人種の壁が薄くなってきています。これが進行したら、植物や機械と人との壁も薄くなるんではなかろうかと思うのですが、最終的に細胞の垣根が溶けてしまった時、私たちはお互いの細胞核を認め合えるようになるのでしょうか?それとも、自分だけ助かればいいやと思って、「同じものを持っていると感じられて仕方がない他人を」殺すのでしょうか。

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